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与太話アンド Assorted Love Songs

韓国めしは何故うまいか に関する考察 Rev 1

韓国めしがなぜうまいか。 もちろんその味がうまいからであるけれど その背後には 韓国めしは 本来日本人にとっては 行儀が悪いとか、野暮であるとか、見栄えが悪いとか そういった文化的制約 あるいは見栄のせいで “本当はそうしたいのだけど できない” 事を正々堂々とやってのけている ということがあるのではないか。 よって 美味しい と感ずる心の深層には 大げさに言うと 実は背徳への不安に始まり、禁を破る快楽や自己憐憫 といった 純粋に味覚とは別の要素があるのではないか とさえ思えてくる。

 

子供の頃からご飯の上におかずを載せて食べるのは行儀が悪いとされてきた。

 

だから ビビンパ ー ご飯の上にいろいろな食材を載せて - そのまま食べるならまだしもー さらに かき回す、さらにコチジャンなどをかけてかき回すとき、人としてこんな事をして良いのかという一抹の不安を覚えるのではないか。 しかしソウルの食堂で 周りを見ると人々はみな無心に当たり前のようにその作業に集中している。やがて それは正であり誰も咎める輩は周りにいないと気が付いた時 長い間自分をしばってきた何かから解放される気分を味わうのだ。 アイ シャルビ リリースト。 だから味覚も新鮮だ。

 

だから キムチ。 だいたい漬物は食事の合間の箸休めであり主役ではない。 食事が始まる前からそれだけをばりばりと、しかも多数食べるのはよろしくない事であると思って育ってきた。 しかし本当は、美味しい漬物はそれだけを順番に関係なく食べたかったのではないか。 韓国メシではそれは最初からでてくる。 食事を頼むとまず最初に出てくる。 箸休めではなく 言ってみるなら箸始めである。 バリバリ食べても誰も咎めない。 日本で漬物のおかわりを頼んだりすることは、少なくとも家庭では由とされなかった。 ここでは自由だ。

 “あ ボクはいくらでもキムチを食えるぞ” という気づき。 ゲシュタルトの崩壊とはこういう事をいうのか。

 

鍋にラーメンを入れて食う ブテチゲ。  しかもソーセージというかスパム入りだ。 みんな鍋から直接麺を取ってずるずる音をたててたべる。大のオトナがこんな事を人前でしてはいけないと教わった。でもうまい。 味噌汁に唐辛子を入れて食べたり ご飯にかけて食べるのだってダメだった。 でもここではできる。 そして うまい。 

 

いかん、こんな戯言で1000字以上 も書いてしまった。 まだいくらでも書けそうだ。

人生は “やりたいけどできない”  “できるけどやりたくない” の二つできている と言ったのはゲーテだったとか。

 

ゲーテ的分類でいうならば  “やりたいけどできない” 事をどうどうと実現しているのが韓国メシの一面であり そこに惹かれるのではないか ということが一つ。 そして2つ目は、多分 辛みやニンニクなど香辛料の抑制のたがが外れてしまっていること。 ボクは こんなにニンニク食ってよいのか、こんなに辛いもの真っ赤なものばかり食ってよいのか というやはり今までの抑制、禁を破る快感。 そして禁を破った向こうにある今まで知らなかった味わい そして安堵。

もちろん料理自体も素晴らしい。 料理のバラエティも豊富で 日本では高級食材とされるものもこちらでは日常的に食されている。 そしてさまざまな香辛料。 青唐辛子を生でそのままかじる快感。 意外にも淡泊な魚の塩焼き。 一人ひとりに鍋で供される料理の数々など。 こんな事を書いていたら韓国めしが食いたくなった。